M1村田宏彰公認会計士事務所
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弁護士である義理の父が亡くなり、告別式に参列してきた。
そこであるハプニングがあった。
火葬場に行き、待合室で火葬が終わるのを待っていたときのこと。
小一時間も待った頃、1人の青年が入ってきて、すたすた喪主に挨拶に行ったと思うと、いきなり泣きじゃくり始めるではないか。
人目もはばからず涙を流し、頬を濡らす涙を繰り返しぬぐい続ける姿に、一同、目が釘付け。
「あれは誰だ?」
通夜にも告別式にもいなかったその青年を、喪主以外は誰も知らないようだ。
喪主が青年の肩をたたいて慰めるその姿から、親しい様子が読み取れる。
いやが応にも疑問が膨れ上がったとき、骨上げに呼ばれ、疑問を抱えたまま、待合室を後にしたのだった。。
精進落としの後、喪主に事情を聞いた。
合意だったはずなのに婦女暴行で訴えられ、故人が国選弁護人として弁護し、執行猶予を勝ち取ったそうだ。
その青年の家族は全員、歯医者だったそうだから、優秀な弁護士をいくらでも雇えたはずなのに、国選弁護人を依頼せざるを得なかったことから、家族の恥さらしとして誰もお金を出さなかっただろう事情を、容易に想像できる。
エリート一家から出た犯罪者。
いわば村八分であったろう。
そんななか、信じ、励まして、執行猶予を勝ち取った。
執行猶予期間中も、再犯すると刑が重くなるため、半年ごとに心配のTEL。青年に彼女ができたら、一緒に家に食事に呼んだりと、家族同然の目のかけよう。
やっつけ仕事とは言わないまでも事務的な国選弁護人が多い中で、故人はそこまで親身になった。
家族から見放された青年にとって、実の親以上に近しい存在だったに違いない。
それなのに、その死に目にも会えず、火葬前に拝顔することすらできなかったのは、痛恨の極みであっただろう。
「なんかね、最近いろんな人に会って、それでね、あ、この人って本当にこの道のプロだなあ、って痛感するときがあるのね。
うまく言葉にできないんだけど、たとえばウエイターでも、ホテルマンでも、弁護士さんでも、お医者さんでも、なんかね、あるタイプの人は、そこに存在して仕事をしているだけで、その人の仕事に私が接しただけで、私がクレンズされちゃうの」
「クレンズ?」
「うん、それまで鬱々として濁ってたものが、一瞬にしてピカピカのきれいな水に変わってしまうような、そんな感じ」
「なんかわかる」
「ほんとにね、ごくたまにだけれど、そういう仕事人がいてね、そういう人の仕事に触れるだけで、私の日常がお掃除されたみたいになるのね。すごいな、って思うの」
「あたしはそういう仕事してきたかなあ・・・と思って。
誠意をもって、最大限の集中力を払い、それでいてエレガントに、かつ明晰に、そして大胆に・・・・。
そういう感じなんですよ、彼らは。
常にパースペクティブがあり、そのくせ直感的なの。かっこいいの。そういう風になりたいなあって、思うんだよね。
残りの人生で自分も・・・・」
名人の仕事ってのは、周りにいる人間を、クレンズしちゃうんだよ。
ものすごく落ち込んだとき、とてつもなく嫌な言葉に触れたとき、自分が辛い体験でボロボロになっていじいじしちゃうとき、悲しいことが重なってどんよりしちゃうとき。
そういうときが人生にはままある。
いろんなふうにして、心には細かくて薄汚い澱がたまる。どうしても溜まっていく。
しょうがないことだ。
そういうとき、自分の仕事、自分の役割に、片意地張るでもなく、威張るでもなく、それを楽しんで、ただもう誠実に、真っすぐに向きあっている人たち、そういう人たちに出会うと、言葉ではなく励まされる。
自分の役割を全うしてる人は、きっと、ただ存在しているだけで、もうそれだけで、たくさんの人を支えているんだと思う。
たぶん、その人は『労働』ではなくて『働き』をしているんだろう。仕事は、自分が『働き』という作用を担うための手段。
―――最後まで生き方を教えてくれた父であった。
ぼくの飼っている猫のピートは、冬になると決まって夏への扉を探し始める。
彼は、家に12もあるドアの、少なくともどれか1つが、夏に通じていると固く信じているのだ。
そして、かくいうぼくも夏への扉を探していた。
あなたなら、どんな気持ちになるだろう?
もし、最愛の恋人には裏切られ、仕事は取り上げられ、生命の次に大事なものを騙し取られてしまったとしたら・・・・。
ぼくの心は冬そのものだったのだ!
そんな滑り出しで話が始まるのは、米国SF作家の巨匠ロバート・A・ハインラインの名作『夏への扉』。
この本に出てくる猫のピートは、どのドアを開けてみても外は寒い冬なのだけれども、それでもどれかのドアで夏に行けると信じ、試してみたがってしかたがない習性を持っています。
1つがダメでも、すべてのドアを試してみるまでは納得せず、人間用ドアまで開けろと飼い主にまとわりつく。
どんなに繰り返そうと、夏への扉を探すのを決してあきらめようとはしません。
何とかしたくても自分ではどうにもできなかったり、追い込まれて八方ふさがりになってしまうことがあります。
こんなときに、信念があればもう少し頑張れる、やり方を変えてチャレンジすれば乗り越えられる、そんな気がします。
この頑固な猫が、私にはとってもかわいく思えるのです。
未来は、必ず過去に優る。
人間はその環境に順応し、徐々に環境に働きかけ、新しいより良い世界を築いていく。
誰がなんと言おうと、世界は日に日に良くなり優りつつあるのだ。
そうはっきり謳い上げることによって、読者を勇気づけてくれる本を、私は他には知りません。
そしてもう1つ大切なことも、この小説は教えてくれます。
人生という大事なドアは、自分の手で開けなくてはならないということを。
息苦しい毎日の中でじーっと黙って待っていても、誰もドアを開けてくれない。
自分で開けないとドアの向こう側には行けない。
もちろん、「向こう側」に何があるかなんて知らないし、考えてもわからない。
でも、このドアを開ければ何かがある、光があるんだ、と信じきることで道が開けるのでしょう。
行き詰まりや閉塞感―――言葉は何でもいいけれど、その扉を開けるのは誰でもない、自分自身だということです。
未来への希望と、正直で誠実な人間への暖かいまなざしに、心温まります。
そしてこの小説は、こう締めくくられています。
「ピートはいつまでたっても、ドアというドアを試せば、必ずその1つは夏に通じるという確信を、棄てようとはしないのだ。
そしてもちろん、僕はピートの肩を持つ。」
皆さん、東京大学ご入学おめでとうございます。一言お祝いのご挨拶を申し上げます。
皆さんは今、将来への希望に胸を膨らませたり、もしかすると既に明確な人生の目標があって、その目標実現のためにこれからの大学生活を送ろうと決意なさっていることと思います。
あるいは、かつて私がそうであったように、大学入学時点では、まだ将来への明確な目標があるというわけではなく、しかし、大学で多くの人との出会いや様々な学問に触れることを期待してわくわくしている人もおられると思います。
ところで、皆さんは、将来の目標とか、卒業後の就職の希望といったこととは別に、人生における「夢」を持っておられるでしょうか。
私には幼い頃から一つの夢があります。
ちょっと口にするのが恥ずかしいのですが、それは「宇宙人に会いたい」という夢です。
それが無理なら、せめて宇宙空間に自分が出かけてみたいという夢です。
そして、この思いは、皆さんの多くと同世代だった18歳の頃から、更に強くなりました。
なぜ、こんな夢を抱いているかと言いますと、宇宙は私の心の中の「第2のふるさと」のようなものだからです。
少し私自身の体験をお話しさせていただきます。
私は1962年生まれで、現在44歳です。
私は生まれてから9歳までは、目が見えて、耳が聞こえる、普通の子どもでした。
わたしが小学1年生だった1969年7月20日、有名なアポロ11号の月面着陸という人類の歴史に残る出来事がありました。
あのときのテレビ中継のインパクト、そして、新聞に掲載されたページいっぱいに広がるような、あの写真の大きさを、今も忘れることができません。
私はそのときから宇宙に心惹かれていました。
宵の明星である金星の輝き、冬の夜空のシリウスやオリオン座の光に、子供心に何か吸い込まれてしまうような、そんな神秘的な感じがしていました。
父に天体望遠鏡を買ってもらう約束をしたのは小学校3年生の2学期のことでした。
しかし、それからまもなく私は失明してしまい、二度と星の光を見られなくなりました。
その後は、専ら音の世界に生きていました。
目は見えませんでしたが、耳から入る情報もたくさんありますから、宇宙に関するテレビやラジオの番組を聴いたり、録音された本や点字の本なども読みました。
木星を初めて間近に撮影したボイジャーの特集番組を、1980年の夏、テレビで聴いたことを思い出します。
ところが、その年の暮れ、今度は耳が聞こえなくなり始めて、ほぼ3ヵ月の間に、全く見えない、全く聞こえない全盲ろう者の状態になってしまいました。
「盲ろう者」といっても、なかなか一般的には通じませんが、あのヘレン・ケラーさんと同じ障害だと言えば、少しおわかりいただけるでしょうか。
見えなくて、同時に聞こえないということは、主観的には、自分がこの地上から消えてしまって、まるで地球の夜の側の、真っ暗な宇宙空間に連れて行かれたような感覚に襲われる状態でした。
何も見えず、何も聞こえない、いつまでも続く静かな夜の世界。
それは言葉で表現できないような孤独と絶望の世界でした。
私が最もつらかったのは、見えない・聞こえないということそれ自体よりも、周囲の他者とのコミュニケーションができなくなってしまったということです。
私から声で話すことはできました。
しかし、相手の返事が聞こえず、表情も見えない私には、会話をしようという意欲さえなくなっていきました。
コミュニケーションとは、双方向的なものなのだな、とそのとき理屈抜きにつくづく実感しました。
もう一つ強く実感したのは、人間には、空気や水や食べ物と同じように、コミュニケーションが生きる上で不可欠なものなのだな、ということでした。
私がこうした絶望の状態から抜け出せたのは、母が偶然思いついた「指点字」という会話方法、点字の仕組みを応用して指先でタッチするコミュニケーション手段のおかげでした。
それは、指から指に伝えるペンと紙を使わない速記のようなものです。
このように、指先で私の指先をタッチしてもらいます。
「あ、い、う、え、お・・・」と、このように伝えてもらうわけですね。(※ここで、横に立つ通訳者に「あ、い、う、え、お」と伝えてもらい、指点字のデモンストレーションをする。)
もっと正確に言えば、この指点字という手段そのものではなく、その手段を使って実際に話しかけてくれたり、周囲の人の言葉や周りの様子を伝えてくれたりする「指点字通訳」というサポートをしてくれる人たちが私を助けてくれたからです。
私はこの指先で伝えられる言葉の力によって生きるエネルギーを与えられました。
話は飛びますが、私も10年ほど前から、パソコンと特別なソフト、そして点字のディスプレー装置などを組み合わせて、Eメールをしていますが、私のEメールでのハンドル・ネームは、ETです。
これは「エクストラ・テレストリアル(Extraterrestrial)」、つまり地球外生命体、要するに宇宙人の意味の略称ですが、私が盲ろう者になって、指点字を使い始めた1981年の翌年、スピルバーグ監督で有名になった映画のタイトルでもあります。
その映画には、自らをE.T.と呼び、地球の花や木に指先で触れることで会話ができる宇宙人が出てくるので、それに引っかけたハンドル・ネームです。
つまり私は自分が盲ろう者になって、いったん失った耳で聞くコミュニケーションを、今度は指先のコミュニケーションとして取り戻すことができ、これは宇宙空間のような状態から地球に戻ってきたまるでE.T.のような存在だと自分のことを半分冗談、半分本気で思っている、ということです。
さて、話を戻しますが、私は高校2年生で盲ろう者となったわけですけれど、そのときは、そもそも高校を卒業できるのかどうかさえわかりませんでした。
もともと大学への進学を希望していましたが、目が見えないだけでなく、耳も聞こえなくなったので、はたして大学進学などできるのかどうか、また進学はできてもその後、大学での生活が送っていけるのかどうか、更に言えば、もし大学を卒業したとしても、その後、仕事があるのかどうか、などなどと将来のことを考えていると、不安なことばかりでした。
そんなとき、私の高校時代の担任の先生は次のようにおっしゃいました。
「先のことをいろいろ考えたって誰にもわからないよ。
日本の盲ろう者で大学に進学した人はこれまでいないそうだけれど、前例がないなら君がチャレンジして前例になればいいじゃないか。
君が大学進学を希望するなら応援するよ。
うまくいかなければ、そのときまた考えればいいさ」と。
そして、指点字の通訳者を育てたり派遣したりして、私の大学進学や入学後の生活を支えてくださいました。
こうして、私は1983年に東京都立大学に入学することができ、教育学を専攻しました。
その後、大学院に進み、研究者への道を歩み、都立大学助手、金沢大学助教授を経て、2001年からは東京大学先端科学技術研究センターでバリアフリー分野の助教授として学生の教育と同時に、広い意味でのバリアフリー論や障害学の研究などに取り組んでいます。
また、東京大学全体の物的・人的双方のバリアフリー化を推進する「バリアフリー支援室」の活動にも参画しています。
その一方で、私が大学に進学したことがきっかけとなって、日本でも盲ろう者について徐々に社会的に知られるようになり、私自身も、私と同じような障害を持つ盲ろう者のための福祉活動に取り組んで、現在、全国盲ろう者協会理事、世界盲ろう者連盟のアジア地域代表などを務めています。
なお、世界で最も有名な盲ろう者であるヘレン・ケラーは、今から約一世紀前、世界で初めて盲ろう者として大学に進学した人でもあります。
彼女の言葉に次のようなものがあります。
「人生は恐れを知らぬ冒険か、それとも無かのどちらかである」と。
日本はややもすると前例を重視する文化が支配的ですが、前例がなければ自分が前例になる。先のことがわからなくても思いきってチャレンジする。
こうした冒険心が人生には必要でしょうし、そうでないとおもしろくないと思います。
さて、話はアポロ計画に戻りますが、アメリカのアポロ計画、あるいは、人類の月面到達を最初に公にしたのは有名な35代大統領、ジョン・F.ケネディです。
彼は1961年の時点で、「60年代中に月面への人類到達を実現したい」と議会で演説しました。
これほどスケールの大きな夢の表明は、歴史上、あまり例のないことだろうと思います。
そして、アポロ計画やアメリカという国そのものには、様々な問題や課題もあるでしょうが、このケネディの宣言を本当に実現してしまうということは、やはりアメリカという国の底力、そして人間の可能性のすごさを私は感じます。
ところで、私は3年前、2004年の11月に、ワシントンで開かれたある国際シンポジウムで講演をしたのですが、その折、偶然、このジョン・F.ケネディの実の妹であるユーニス・ケネディ・シュライバーさんというとても元気のよい高齢の女性とお会いして、短い時間でしたが、面談する機会がありました。
私は2つの意味で、とてもエキサイトしました。
1つは、ユーニスがあのケネディの妹であること、そしてもう1つは、ユーニスが、知的発達障害の人たちのオリンピックである「スペシャルオリンピックス」を始めた人だからです。
一般にはあまり知られていませんが、ジョン・F.ケネディの妹で、ユーニスのお姉さんにあたるローズマリー・ケネディという女性がいて、その女性は知的発達障害を持っていました。
ユーニスが1962年に自宅の庭を開放して知的障害の人や関係者のためのデイキャンプを開いたのが、現在のスペシャルオリンピックスの始まりだと言われています。
これはケネディがダラスで暗殺される前の年に当たります。
ここで、スペシャルオリンピックスについて詳しく述べることはできませんが、簡単に申し上げれば、それは通常のオリンピックとは異なり、競争相手を打ち負かして、金メダルを取ることが真の目標ではないということです。
それは多くの人の助けを借りながら、お互いの勇気を示し合う、そして競技が終わればみんなが表彰台に上り祝福し合うようなそんな素敵なオリンピックスだということです。
一昨年、2005年の2月に、長野県でスペシャルオリンピックスが開催されましたので、テレビなどでご覧になった方もおられるでしょう。
なお、このスペシャルオリンピックスが複数形なのは、日常的なトレーニングから世界大会に至るまで、いつでも、世界中のどこかで、この活動が行われているからです。
そして、スペシャルオリンピックスの活動が目指す社会とは、一人ひとりの個人が自然に、あるがままに受け入れられ、認められるような社会だと言われています。
私はユーニスとお会いしたとき、ジョン・F.ケネディが内面に秘めていたエネルギーの源の一部を垣間見た気がしました。
ご承知のように彼は、一方で、ニュー・フロンティア政策や月面への宇宙探検など、アグレッシブで、アクティブな姿勢を重視しているわけですが、それはただ単に「強い者だけが勝ち残る社会、競争に勝った者だけが報われる社会」を目指していたのではなかったのではないか、と私は思いました。
彼が真に価値を置いていたのは、すべての人間が、それぞれが抱える様々な条件と向き合いながら、自分と社会をより良く変革していくための努力とチャレンジをすること、言い換えれば、ニュー・フロンティアはどこか外部にあるのではなく、自分自身の中にあることを自覚することを訴えたかったのではないかと、私は感じました。
私は盲ろう者になって、その体験から2つのことを学んだように思います。
1つは、人間は一人ぼっちでは生きていけないということです。
他者とのかかわり、他者とのコミュニケーションがなければ、どのように知識や情報があっても、あるいは、すばらしいご馳走を食べていても、生きる上での魂のエネルギーは湧いてこないということです。
そしてもう1つは、どのような困難な状況にあっても、可能性がゼロになるということはない、チャレンジし、現状を変革していく可能性は必ずある、ということです。
皆さんは、これまで大変な困難を乗り越え、チャレンジし、そして東京大学に入学なさいました。
これはすばらしいことです。
これからも、学生時代や大学を卒業して社会に出てからも、様々な種類の困難やチャレンジを経験なさると思います。
最後に、困難に挑戦するということについて私が考えることを申し上げます。
私は「挑戦」とは、1人だけでがんばって1人だけで成果を得ることではなく、常に有形・無形の他者の手助けと共にあるものだと思います。
挑戦とは、単に無謀な危険を冒すことではなく、地道な努力と準備があって、成功するものです。
挑戦とは、相手を打ち負かして競争に勝つことを意味するのではなく、その本質は、自分自身に挑戦することです。
挑戦とは、他者の立場を想像する力と、他者と協力しながら新しいものを生み出していく営みです。
挑戦とは、ときに孤独なものですが、1人だけで生きている人間は世界中どこにも存在しません。周囲の人とのつながり、他者とのコミュニケーションを常に重視すべきです。
そして、挑戦とは、常識的な意味での社会的な名誉やステータスを得ることだけがその目標なのではなく、自らがしっかりと生きていくこと、そして自分と他者が共に生きていくことを支えていく営み自体の中に、本当に困難な部分があり、その営みこそが最も重要な挑戦なのだと思います。
私は先ほど、「宇宙人に会うのが夢だ」と申し上げました。
その夢は今も変わりませんが、実は既にその夢の一部は実現しています。
なぜなら私たち全員は地球上にあって、太陽の周りを回りながら、そして天の川銀河の回転に乗りながら、大宇宙を共に旅する存在であり、まさに宇宙に共に生きている「宇宙人」同士だからです。
とはいえ、皆さんと、たとえば盲ろう者の私との間には、様々な相違点があり、大きな距離が開いているかもしれません。
見えない聞こえない私には、直接皆さんを把握することはできないからです。
しかし、考えてみれば、人は皆、直接、他者の本質を把握することはできません。
できるのは、互いの魂にそっと触れ合うことだけです。
そうであればなおのこと、互いに触れ合うことを大切にしていきましょう。
共に宇宙を旅する仲間として、これからも一緒に歩んでいきましょう。
そして、東京大学というフィールドを拠点にして、新しい冒険とチャレンジの歴史を築いていきましょう。
本日はおめでとうございました。
(東京大学 先端科学技術研究センター バリアフリー分野 准教授 福島 智(さとし))
(東京大学入学式祝辞07/4/12、日本武道館にて)
(動画はhttp://www.u-tokyo.ac.jp/gen01/b_message19_05_j.html参照)
Part 5:About Death
3つ目は、死に関するお話です。
私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。
「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。
そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。
それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。
そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問いかけるのを日課としてきました。
「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。
それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。
自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。
これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。
何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て―――外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て―――こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。
そして後に残されるのは、本当に大事なことだけ。
自分もいつかは死ぬ。
そのことを思い起こせば、自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り、最善の防御策です。
君たちはもう素っ裸なんです。
自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。
Part 6:Diagnosed with Cancer
今から1年ほど前、私は癌と診断されました。
朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。
医師たちは私に言いました。
これは治療不能な癌の種別である、ほぼ断定していいと。
生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう、と。
主治医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。
これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコード(符牒)です。
それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、ということです。
たった数ヶ月でね。
それはつまり、自分の家族がなるべく楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろ、ということです。
それはつまり、さよならを告げる、ということです。
私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。
そしてその日の夕方遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を診てもらったんですね。
内視鏡は胃を通って腸内に入り、そこから医師たちはすい臓に針で穴を開け、腫瘍の細胞を幾つか採取しました。
私は鎮静剤を服用していたのでよく分からなかったんですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、急に泣き出したんだそうです。
何故ならそれは、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かったからなんです。
こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元気です。
これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。
この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。
以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど、純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。
でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。
天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。
にも関わらず、死は我々みんなが共有する終着点なんだ。
かつてそこから逃れられた人は、誰一人としていない。
そしてそれは、そうあるべきことだから、そういうことになっているんですよ。
何故と言うなら、死は、おそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。
それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。
今この瞬間、新しきものと言ったら、それは他ならぬ君たちのことだ。
しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって、一掃される日が来る。
とてもドラマチックな言いぐさですまないけど、でもそれが紛れもない真実なんです。
君たちの時間は限られている。
だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。
ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。
それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。
その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。
自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。
だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。
Part 7 Stay Hungry, Stay Foolish
私が若い頃、“The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)”というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。
それはスチュアート・ブランドという男がここからそう遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げていました。
時代は60年代後半。
パソコンやデスクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターとハサミ、ポラロイドカメラで作っていた。
だけど、それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。
スチュアートと彼のチームはこの“The Whole Earth Catalogue”の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出した。
それ70年代半ば。私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。
最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。
君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真です。
写真の下にはこんな言葉が書かれていました。
「Stay hungry, stay foolish.(ハングリーであれ。バカであれ)」。
それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。
「Stay hungry, stay foolish.」
それからというもの、私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。
そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。
Stay hungry, stay foolish.
ご拝聴ありがとうございました。
(アップルコンピュータ創立者・CEO スティーブ・ジョブス)
(2005/06/12、スタンフォード大学卒業祝賀スピーチより)
原文URL:http://slashdot.org/comments.pl?sid=152625&cid=12810404
Part 4:Fired from Apple
2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。
私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができた。
実家のガレージでウォズとアップルを始めたのは、私が20歳の時でした。
がむしゃらに働いて10年後、アップルはガレージの我々たった2人の会社から従業員4000人以上の20億ドル企業になりました。
そうして自分たちが出しうる最高の作品、マッキントッシュを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会社を、クビになったんです。
自分が始めた会社だろ? どうしたらクビになるんだ? と思われるかもしれませんが、要するにこういうことです。
アップルが大きくなったので私の右腕として会社を動かせる非常に有能な人間を雇った。そして最初の1年かそこらはうまく行った。
けど互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終わってしまった。
いざ決裂する段階になって取締役会議が彼に味方したので、齢30にして会社を追い出されたと、そういうことです。
しかも私が会社を放逐されたことは当時だいぶ騒がれたので、世の中の誰もが知っていた。
自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたんですから、私はもうズタズタでした。
数ヶ月はどうしたらいいのか本当に分からなかった。
自分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たちの業績が地に落ちた、自分は自分に渡されたバトンを落としてしまったんだ、そう感じました。
このように最悪のかたちで全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスにも会いました。
知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで、一時はシリコンヴァレーを離れることも考えたほどです。
ところが、そうこうしているうちに少しずつ私の中で何かが見え始めてきたんです。
私はまだ、自分のやった仕事が好きでした。
アップルでのイザコザはその気持ちをいささかも変えなかった。
振られても、まだ好きなんですね。
だからもう一度、一から出直してみることに決めたんです。
その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました。
成功者であることの重み、それがビギナーであることの軽さに代わった。
そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくなった代わりに、自由になれたことで私はまた一つ、自分の人生で最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたんですね。
それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。
ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。
思いがけない方向に物事が運び、NeXTはアップルが買収し、私はアップルに復帰。
NeXTで開発した技術は現在アップルが進める企業再生努力の中心にあります。
そして、ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。
アップルをクビになっていなかったら、こうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。
そりゃひどい味の薬でしたよ。で
も患者にはそれが必要なんだろうね。
人生には時として、レンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。
だけど、信念を放り投げちゃいけない。
私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。
皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。
それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど、自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。
そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることなんですね。まだ見つかってないなら探し続ければいい。
落ち着いてしまっちゃ駄目です。
心の問題と一緒で、そういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴らしい恋愛と同じで、年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。
だから、探し続けること。落ち着いてしまってはいけない。
(アップルコンピュータ創立者・CEO スティーブ・ジョブス)
(2005/06/12、スタンフォード大学卒業祝賀スピーチより)
Part 1:Birth
ありがとう。
世界有数の最高学府を卒業される皆さんと、本日こうして晴れの門出に同席でき、大変光栄です。
実を言うと私は大学を出たことがないので、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということになります。
本日は、皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。
それだけです。どうってことないですよね、たった3つです。
最初の話は、点と点を繋ぐというお話です。
私はリード大学を半年で退学しました。
が、本当にやめてしまうまで18ヶ月かそこらはまだ大学に居残って、授業を聴講していました。
じゃあ、なぜ辞めたんだ? ということになるんですけども、それは私が生まれる前の話に遡ります。
私の生みの母親は若い未婚の院生で、私のことは生まれたらすぐ養子に出すと決めていました。
育ての親は大卒でなくては、そう彼女は固く思い定めていたので、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることで手筈はすべて整っていたんですね。
ところがいざ私がポンと出てしまうと、最後のギリギリの土壇場になってやっぱり女の子が欲しいということになってしまった。
で、養子縁組待ちのリストに名前が載っていた今の両親のところに、夜も遅い時間に電話が行ったんです。
「予定外の男の赤ちゃんが生まれてしまったんですけど、欲しいですか?」。
彼らは「もちろん」と答えました。
しかし、これは生みの母親も後で知ったことなんですが、2人のうち母親の方は大学なんか一だって出ていないし、父親に至っては高校もロクに出ていないわけです。
そうと知った生みの母親は、養子縁組の最終書類にサインを拒みました。
そうして何ヶ月かが経って、今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、さすがの母親も態度を和らげた、といういきさつがありました。
Part 2:College Drop-out
こうして私の人生はスタートしました。
やがて17年後、私は本当に大学に入るわけなんだけど、何も考えずにスタンフォード並みに学費の高いカレッジを選んでしまったものだから、労働者階級の親の稼ぎはすべて大学の学費に消えていくんですね。
そうして6ヶ月も過ぎた頃には、私はもうそこに何の価値も見出せなくなっていた。
自分が人生で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手助けをどう大学がしてくれるのかも全く分からない。
なのに自分はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。
だから退学を決めた。
全てのことはうまく行くと信じてね。そりゃ当時はかなり怖かったですよ。
ただ、今こうして振り返ってみると、あれは人生最良の決断だったと思えます。
だって退学した瞬間から興味のない必修科目はもう採る必要がないから、そういうのは止めてしまって、その分もっともっと面白そうなクラスを聴講しにいけるんですからね。
夢物語とは無縁の暮らしでした。
寮に自分の持ち部屋がないから夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと5セント玉がもらえるんだけど、あれを貯めて食費に充てたりね。
日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院でやっとまともなメシにありつける、これがメチャクチャ旨くてね。
しかし、こうして自分の興味と直感の赴くまま当時身につけたことの多くは、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだって分かってきたんだね。
ひとつ具体的な話をしてみましょう。
Part 3:Connecting Dots
リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ教育を提供する大学でした。
キャンパスのそれこそ至るところ、ポスター1枚から戸棚のひとつひとつに貼るラベルの1枚1枚まで美しい手書きのカリグラフィ(飾り文字)が施されていました。
私は退学した身。
もう普通のクラスには出なくていい。
そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、どうやったらそれができるのか勉強してみることに決めたんです。
セリフをやってサンセリフの書体もやって、あとは活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実現するためには何が必要かを学んだり。
それは美しく、歴史があり、科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めてみると私はすっかり夢中になってしまったんですね。
こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。
だけど、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計する段になって、この時の経験が丸ごと私の中に蘇ってきたんですね。
で、僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。
そうして完成したのは、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした。
もし私が大学であのコースひとつ寄り道していなかったら、マックには複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズはマックの単なるパクりに過ぎないので、パソコン全体で見回してもそうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しなかったことになります。
―――もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。
そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかった。
もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。
だけど、10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。
もう一度言います。
未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。
だからこそ、バラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。
自分の根性、運命、人生、カルマ・・・・何でもいい、とにかく信じること。
点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで、君たちは確信を持って、己の心の赴くまま生きていくことができる。
結果、人と違う道を行くことになっても、それは同じ。信じることで、全てのことは間違いなく変わるんです。
(アップルコンピュータ創立者・CEO スティーブ・ジョブス)
(2005/06/12、スタンフォード大学卒業祝賀スピーチより)
「今のままではダメだ、変えなくては・・・・」
そう思っていても、何をすべきかわからずに悩んでいる人が多い。
「危機感はあっても、変わりきれないから悩んでいる」ということであろうか。
変わるためには、何かを『捨てる』ことだ。
人間のキャパシティは限界があるのだから、新しいことに打ち込むためには、既存の何かを捨てるしかない。
例えば、コップの水が濁っているときに、水をきれいにするにはどうするか。
濁った水にきれいな水を注いでも、濁りが薄まるだけできれいにはならない。いったん捨てて、入れ直した方がはるかに早い。
『捨てる』ことについて、元F1レーサーの片山右京は、次のように語っている。
「レースでは心の中に抱えるものが1つ増えると2位になり、1つ捨てられないと3位になる。だから、レース中はいつでもストイックな態度で臨むべきだ」と。
ストイックに徹することで、自分の目標の追求に専念できると知っているからこそ、言える言葉だ。
また、プロスケート選手の清水宏保は、毎年オフシーズンを迎えると、リスクを承知で、スケート選手にとって生命線である滑走感覚を全て捨て去るという。
そしてささやかな休息を過ごした後、意識が遠のいて目の前が真っ白になるほどのトレーニングを行い、ゼロからの再構築に取り組む。
継続は安定した上昇を約束してくれるが、同時に、それが限界をつくりうる危険性があることをわかっているからだろう。
『捨てる』ことは、何であれ勇気がいる。しかし、『捨てる』からこそ、必死で考えられるのだ。
そうして初めて、何がやりたいか、主体的に考えることができるのではないか。
「失われた10年」という言葉があるが、主語不在で誰も責任を感じない言い回しだ。
いつも不思議に思うのだが、誰が失ったのか?
自らのこととして考えれば、当然に「失った10年」であるべきだろう。
50年以上前に「1億総懺悔」という言葉があったが、これも責任をぼかした言葉であった。
そして今、「失った10年」どころか、「さらに失う10年」が現実化しようとしている。その中でわれわれは、何をなすべきなのか――――。
こういう感覚を大事にすれば、個人も会社も変われるし、成長していける。何より、賞味期限を誤らない生き方ができるはずだ。
人間は自分の生きていく道を、結局、自分が創っていくしかないという。
30代で何をやったかで40代が決まり・・・・、
40代で何をやったかで50代が決まる・・・・。
その結果は他人のせいじゃなく、全て自分の意志ということだろう。
厳しい時代であるのは言うまでも無い。
『捨てる』努力が報われないこともある。しかし、『捨てる』ことで限界を超えていくしか、道は開けないのだ。
会社が倒産するタイプは、最近、だいたい次の2つに集約されるようだ。
1つは、バブルが続くと信じて過大な設備投資や借入金をしてしまい、バブル崩壊とともに苦しくなった、いわば経営判断を誤ったケース。
親族もこのケースだった。
もう1つは、経営者自身に金銭感覚がないケース。
利益とキャッシュが連動しない事実は、経営者であれば誰でも知っているべきことだが、意外と知らない経営者は多い。
それどころか、売上代金のいくらかを自分のポケットに抜き取って入れてしまう経営者すらいる。
企業には、この一線を超えたら倒産を免れえないという『限界』がある。
この限界を知るには、「会社を清算した場合、債権者を納得させられるだけの配当を出せる資産が会社に残っているかどうか」といったストックに基づいた視点と、「今後、1年程度の間に収益が改善する可能性があるかどうか」といったフローに基づいた視点が大切だ。
倒産企業の管財人は、土地を路線価の7割、在庫を簿価の1割、売掛金を簿価の2割、建物や機械装置をゼロとして、純資産が+か△かで計算するから、これも目安となろう。
ただ、これらの限界は、経営者自身にも見極めがつきにくい。
冷静で適切な判断を下すために、まず必要になるのは、経営者自身の金銭的な余裕であるのは言うまでもない。
判断を誤ったら全てを失う状態では、とても冷静ではいられないし、最後の手段として、自己破産するにも60万円、民事再生法をするのにも600万円かかるという。
しかし、実際にやろうとすると、これは意外に難しい。
一般にオーナー経営者は、個人資産と会社資産の境界が曖昧になっているから、会社の資金繰りが破綻する頃には、経営者の個人資産が底をついていることも多いからだ。
だからこそ、日頃から自社の資産価値を把握することが必須といえる。
それができないと、既に死に体になっているのに、まだ助かると見誤り、サラ金に手を出すなどして、より大きな不幸を自ら呼び寄せてしまうことになってしまう。
私事になるが、親族の会社が倒産した。
寝耳に水でびっくりしたが、倒産の最大の原因は、バブル期の工場建設資金の借金と、製品価格の下落の2点に絞られるようだ。
国内に工場を持つことは、かつてはともかく、現在では足かせになりかねない。
一方、製品は輸入品の安値攻勢にさらされ、価格は約5分の1に下落したそうだ。
作れば作るほど赤字が出てどうにもならず、特にここ1年ほどは資金繰りが思わしくなくて、叔父は血尿まで出たという。
全国でも50位以内に入る老舗企業だっただけに、惜しまれる。
いや、老舗企業ほど倒産率がアップしている現在だからこそ、というべきかもしれない。
老舗企業ほど時代のスピードについていけていない傾向がある。
リストラしようにも、しがらみやら既に背負った重荷やらが、あるからだろう。
持てる者の強みは、いま、弱みに転化してしまっているのだ。
“持たざる者の強み”を改めて認識する必要があろう。
経営者のコントロール能力を超えた事業拡大は、必ず失敗する。
親族の中で最も羽振りがよかった叔父の会社の倒産が、それを物語る。
叔父一家は、自宅に押し寄せる債権者たちから逃れるため、市内を転々としているという。
現在、自己破産の申請中だそうだ。
60代になって全てを失うものほど、つらいものはない。
たくさんのものを持っていればいるほど、それを失ったときにたくさんのものを失うことになる。
「人生の終わりにその成果を全く持たない人生ほど、不幸なことはない」と言ったスイスの思想家カール・ヒルティの言葉が心にしみる。
ご注意あれ。
「強い」という場合、どういう形で強いというのだろうか。
普通、たいていの人は自らの勝ちバターンを見つけ、それで勝負する。
独自の戦法を研究し、磨きをかけ、『○○流』と呼ばれるいわばパターン戦法で一世を風靡したり、あるいは、連勝してタイトルを奪取したりする。
しかし羽生氏の場合は、どうもそれとは異なるようなのである。
オールラウンドにどんな戦法でも使いこなしてしまい、しかもめっぽう強いときているからである。
どんな勝負でも、怖さを感じるのは、相手が伝家の宝刀を抜くとき、つまり、相手の勝ちパターンにはまりつつあるときだろう。
それとも、いかにそのパターンにはまらないようにするか、脅えつつ戦うときだろう。
それが相手の強みにもなるわけだが、羽生氏には『羽生マジック』という言葉はあるが、では、それがどういうパターンかと言うと、一定のパターンはなく、その時々で全く違う。
勝つための必然性はあるが、その手法は多彩で、最初から予想できるパターンではない。
そこに恐ろしさがある。
何故なら、いつどういうときにそれが出るのか、既に出ているのか、あるいは、まだ出ていないのかすらも、後になってみないとわからないからである。
史上最強の棋士と言われる大山康弘名人の口癖は、「将棋を指しているときが一番楽しい」であった。
その大山名人の存在を大きな励みとする羽生氏にとって、真剣勝負である実践こそが、一番の研究の場であるようだ。
大きな勝負でわざと危険を冒すこともあるという。
だからこそ、「戦い方のオプションは、毎年増えている気がします」と、こともなげに言うのだろう。
『強み』が、時間の経過とともに『弱み』へと変わっていくことは往々にしてあることだが、その『強み』がパターンでないなら、いくら外部環境が変わっても負けることはない。
強いはずである。
棋士の羽生善治(はぶよしはる)氏は、どうしてあんなに強いのか。
通算勝率は約75%にまで達するという。
素人を相手にならともかく、プロを相手に、である。
他のプロ棋士の実力が上がったこともあり、7冠時代に比べると、その強さは相対的にやや薄れているが、やはり圧倒的に強い。
5冠を維持しており、昨秋も王座戦10連覇を達成した。
その強さの理由として、天才少年と呼ばれた頃は
「定石にとらわれずに意表をつく手を打ってくる」
「相手を上目使いににらむ”ハブ睨み”で相手はヘビににらまれたカエル状態になる」
「羽生マジックと呼ばれる逆転勝ちが多い」
・・・・などと言われたが、果たしてそうだろうか。
プロの実力差は、それこそ紙一重のはずである。
下記は、1989年の日本経済新聞に掲載された本人のコメントである。
「6才で将棋を覚え、小学生の頃にプロ棋士の存在を意識した私は、早熟と言われた。
しかし、将棋の進歩が急ピッチになりつつある今の情報化社会の将来は、6才以下の幼児たちが、どんどん将棋を指すということになるかもしれない。
そうなれば競争はより激しくなり、それにつれて将棋の戦法的進歩のテンポも加速される。
その結果、現在の将棋は10年後には全く通用しないということになりかねない。
そうした進歩に取り残されないためにも、油断は禁物、絶えず前向きな勉強が必要と思う」。
1989年といえば、株式相場が38,915円の最高値をつけるバブル絶頂期。
一方、15歳でプロ4段になり、19歳で既にトッププロ入りしていた本人の年収は、軽くみても数千万円はあったろう。
遊びたい盛りの19歳という年代で、金も地位もある。
加えて周りはバブルで浮かれており、いろいろ誘惑もあったに違いない。
その中で、本人は何を考えていたのだろう。
『人の真価は、危機に直面したときに表れる』という。
しかし実は、『人の真価は順調なときにこそ、表れる』のではないだろうか。
危機の時には、打つ手は限定される。
現状を何とか改善しようと必死に考えるものだし、また、そう考えざるを得ない状態に追い込まれるからである。
しかし、順調なときは、選択肢が数限りなくある。
好きなこと・したいことがいくらでもできるとき、何をするか。
金も地位も名誉も権力もあるとき、いかに自分を見失わずにいるか。
金も名誉も手にした遊び盛りの弱冠19歳の若者は、毎日がお祭り騒ぎのバブルの真っ只中で、自分の本分を忘れずに、謙虚に精進し続けた。
使いきれない程の金を持っていたのに、である。
強いはずである。
紙一重の実力差のプロの間で、頭2つも3つも抜きん出ることができたのは、この自意識の持ちようであろう。
さらに、「多くの人に将棋を愛してもらいたい」と将棋界のことまで考えるのを怠らない。
その想いは、「僕の大リーグでの働きで、少年たちに野球をやりたいという気持ちを持ってもらうことになれば嬉しい」と語ったイチローとも共通する。
タイトルホルダーにふさわしい『想い』。勝者としての貫禄充分だ。
羽生善治もイチローも、一見ギラギラしたところはない。
淡々と勝負しているように見える。
大欲は無欲に見えるという。
大欲の前では、小欲はどうでもいいと思えるからだろう。
淡々としているように見えるのは、大欲を持っているからに違いない。
いわば『志』というべきものだ。
そして、その志の高さをいかに守り抜くかは、日常茶飯の自己規律にかかっていることをわかっているのだろう。
箸の上げ下ろしから、物の言い方・人とのつきあい方・息の吸い方・酒の飲み方・遊び方までの全てにおいて、その志を守り抜く意識で貫かれていなければならないということだ。
ただ謙虚に頑張って成功するのであれば、誰も苦労はしない。
大欲を持てるか否かが、成功するかしないかの分かれ目であるとすれば、成功するには大欲を持たねばならぬ。どんな大欲を持つか。
現在31歳になった羽生善治氏は、次のようにコメントしている。
「今後の10年間は、棋士としていろいろ難しい時期になると感じている。
直観力や記憶力は、10代・20代に比べて落ちるだろう。
しかし、この10年間の経験を盤上で生かしていく方法は必ずあると思っている。
惰性に流れず、将棋をどこまで極められるか、行けるところまで行きたい、と考えている」
安部公房の小説『壁』の中に、『魔法のチョーク』という短編があります。
主人公の画家のアルゴン君は、あるとき魔法のチョークを手に入れます。壁に絵を描けば、その絵が本物になって現れるという魔法のチョークです。
貧乏で常に空腹のアルゴン君は、食べ物の絵を描いて、食べ物を取り出しては食べて、空腹を満たす毎日をおくっているのでした。
ある日、アルゴン君は窓を壁に描いてみます。
ところが、窓は現実にならない。何故なら、窓の向こうの世界をアルゴン君が描けないからなのです。
彼は、もんもんとして、見たことのない窓の向こうの世界をあれこれ想像するのですが、描けない。
数週間、それこそ一生懸命になって考えるのですが、どうしても正確には描けない。
このアルゴン君は、例えば、私であるかもしれません。
歩けばいつか壁に突き当たります。
迂回しようとしても、壁はどこまでも続いています。
壁の向こうにぜひ行ってみたいのに、壁の手前で途方に暮れている私。
あるいは、壁がどこかで途切れてはいやしないかと捜し回っている私。
ここにはない理想や夢は、壁の向こう側にあるかもしれないと思うからです。
壁は可能性を与えてくれるものかもしれない。壁を乗り越えることで、今の自分の限界を変えられるかもしれない。
でも乗り越えられないと、アルゴン君と同じように、私も結局は壁に吸い込まれてしまうかもしれませんね。
もちろん、いつもこんな能天気なばかりでは人生、成功しません(当たり前ですが)。
ここぞというときの勝負時は、かなり大胆に賭けるようです。
例えば、カジノ。
バカラプレー中に、場の流れを見るのがうまい。
黒か赤か(という表現を使うと)賭ける時に、必ず一方が5回以上続くときがあります。
続くときは続くので、Cashはこのとき増えるのですが、いずれ続かなくなるときがやってきます。
社長は潮時だなと思うと、「そろそろやめるか」と言って降りますが、私は「いや、また来ますよ」とずるずる賭けてしまいます。
もちろんもう来るはずも無く、一時3倍に増えたCashは1.7倍にまで減ってしまいました。
後からは、あの時が分岐点だったのかとわかるのですが。
『1.3損した』と思うことも拍車をかけます。
実は『0.7得』しているのにね。
素人は、熱くならないように意識して予防線を張らなければなりませんが、無意識に出来る人もいるんですよね。
社長はその1人でしょう。
経営者で成功している人は、多かれ少なかれその部分に長けているような気がします(私の顧客を見る限り)。
社長はカジノのVIP Roomで1晩で300万円買ったことがあると言っていました。
意識しないのが良かったとも。
東尾監督が同じテーブルにいて、お互いが気になりながら賭けていたのがよかったのだろうとのことでした。
2人とも勝っており、後から来た従業員が後ろでびびって「もうやめましょうよ」と声をかけて初めて、300万くらい儲かっているのがわかったそうですから。
勝負師同士、お互いにわかるようですね。
私には縁の無い話です(笑)。
奥さんもやり手です。
27歳のときに6,000万円の家を全額、銀行融資で購入したのにはビックリしました。
30歳前半でハワイのコンドミニアムも購入し、皆が買い始める前に売り逃げ。
こんな社長夫妻ですから、豪州の別荘を買うときもかなり調べたようです。
通常は、現地の日本人を頼っていくと思うのですが、いきなり現地の不動産業者に飛び込み、物件をいろいろ見せてもらったそうです。
最初はご多分に漏れず、コンドミニアム希望だったそうですが、だんだん見ていくうちに目が肥えてきて、リゾートのwaterfrontの一戸建てを検討。
情報ソースが現地の不動産業者だけでは不安なため、弁護士をつけて物件をみてもらう。
そうして総合リゾート法(外国人同士では売買できない)の対象外であることを確認。
ある中小企業オーナーが旅行で来て、Gold CoastのコンドミニアムのPenthouseの1floor(5bedroom)を1.5億円で買ったそうですが、1週間後に社長の別荘に遊びに来て、後悔して「すぐ買い替える」と言ったそうです。
ところが、総合リゾート法のため、現地人にしか売れません。
どの現地人だって、もっと良い物件があるとわかっているのだから、買いやしません。
半額でようやく売れたそうですが、わずか数週間で7,500万円の損。
弁護士費用で100万円払っても、どちらが得でしょうか?
情報やサービスに価値を認める習慣が無い一般の日本人は、注意すべきですよね。
土地購入後、建物を設計する段階の話でも、聞いてビックリしました。
建築設計士を紹介され、握手をかわした直後、「あなたの家を見せてくれ」とお願い(ほとんど要求)。
その場で設計士の家に行き、中を見せてもらったそうです。
もちろん予告無しのため、家の中は普段のままです。
その場で見せてもらわなければ、腕に自信が無いと考え、他の設計士にするつもりでいたとのこと。
ポリシーがはっきりしているため、あまり日本人とは交流しようとはしていません。
他の日本人は、(たとえ英語に不自由しなくても)豪州人にはあまり話し掛けないで、日本人同士で話してしまうようですね。
これは奥さんから聞いたのですが、海外で日本人同士で話をすると、必ず日本での職業を聞かれるそうです。
会社の名前は何だとか、会社の地位は何だとか、住む場所はどこだとか。
「自分の中で格付けして初めて、安心するんでしょうね」とのことです。
思い当たるフシが私にもあります。
どうでもいいのにね。
精神的に自立していない日本人がいかに多いかということでしょう。
奥さんが言っていたことでもう1つ。
海外にいる日本人を無条件で信用しないとのこと。
不思議に思って訳を聞くと、今まで優秀な日本人は日本で働いて稼いできたため、日本でdrop outした人が海外で働かざるを得ない側面があったとのことです。
これらの人たちは、金を持っており英語を話せない日本人に群がる傾向があるようです。
もちろん全員ではないでしょうが、この話を聞いて、一理あるなと感じました。
英語だけが武器である怪しげな日本人業者が多いそうです。
前述の7,500万円損した中小企業オーナーも、日本人業者を無条件に信用したためでした。
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どうだったでしょうか。くれぐれも物質的なところにとらわれないでほしいものです。
セミ・リタイアしているこの成功者をみると、いくつかの精神的特徴が浮かび上がります。
人生は楽しいものだという根本的価値観、自分を信じて努力すれば必ずかなうという信念、そして、チャンスには大胆に賭け、引くべきところはさっと引く。
成功は、その結果よりもプロセスが重要であるのは、言うまでもありません。そして、そのプロセスを支える考え方こそが大事なのですが、表面ではなく実質を理解する人は少ないように感じます。
もちろん『成功』の定義は、個々人で異なるでしょう。
実際、セミ・リタイアを『成功』と考える人は少数派。やりがいや満足感を『成功』ととらえる人のほうが、はるかに多い。
上記の成功者の『成功』が、たまたま、一般受けしやすい形だったに過ぎません。大橋巨泉が受けているように。
しかし、『成功』のベースとなる精神は、誰であっても同じでしょう。
そして、成功後も日常が続くことを考えれば、『真の成功とは何か』という永遠の課題にヒントが与えられるように思うのですね。
今日は、物に対する考え方や姿勢について。
昨年と今年の旅行で学んだことの一つに、人生をエンジョイする態度があります。
社長夫妻や現地の豪州人には、ギスギスしたところは全く無く、能天気なくらい明るく過ごしています。
現地で働く日本人も例外ではありません。
環境がそうさせるのでしょうね。
インテリアを自分で楽しんでいる社長夫妻の家のmaster bedroomには、奥さんの引き伸ばし写真(60cm×60cmくらい)が飾られています。
ハリウッド女優になって記念写真を!というやつです。
社長が1人で滞在しているときに、豪州人を家に招きました。
豪州人が家の中を見たいと言うので、社長が案内して回ったときに、奥さんの引き伸ばし写真を指して、
社長:「Japanese famous movie star」
豪州人:「Oh, beautiful!」と愛想。
社長:「(実は)my wife」
豪州人:「Really?」とビックリ仰天。
もちろん、社長はワハハと大笑いです。
社長がsurfers paradise(現地の観光名所)に行って免税店に入ったときのことです。
社長のつたない英語(というよりもほとんどbody language)で、豪州人の店員と30分ほど会話していました。
話す内容は、「お前はどこから来たのか?」とか「カジノは面白い」とか他愛ない内容だったそうですが、仲良くなって、社長がその店員に名前を教えてくれと言うと、店員は「ニック」との答え。
近くにあった紙に「スペルはこうだ」と書いた文字が、なんと漢字の『肉』(!)。
実は、その店員は日本語ペラペラだったのです。
一瞬の間をおいて、2人で爆笑したそうです。
そのリゾートのゴルフ場で、一緒に回ることになった35歳くらいの禿げかかった現地の豪州人(この人は日本語は話せませんヨ)。
ゴルフの後、ランチを一緒に食べているときに、
豪州人:「Are you married?」
社長:「Yes」
豪州人:「You are happy. But I am more happy.」
社長:「Why?」
豪州人:「Monday girl, Tuesday girl, Wednesday girl,・・・」
社長:(爆笑)
とまあ、こんな感じです。
Nickとも禿げかかった豪州人(名前を忘れた)とも食事をしましたが、楽しい人たちです。
人生を謳歌しているのがお分かりですよね。
英語がほとんど話せなくても、人生を楽しむ姿勢が重要なのでしょう。
(現地の人もリゾートの居住区では挨拶するのが当たり前、目が合うとニコッと笑って話しかけてきますし。)
今年は7月下旬から8月上旬にかけて、9日間(現地7日間)行ってきました。
今度は、妻と子供を連れてです。
昨年は私1人でしたが、今年は、ぜひ体験させたいという気持ちと、一緒に連れて行けば文句は言われないだろうという気持ちの半々です。
何しろ、昨年は『自分1人だけいい思いをして・・・』と大変だったんだから(笑)。
家族連れですから、行く先はまずは、ドリームワールドやシーワールドの遊園地です。
社長の奥さんと子供も一緒で、文字どおり、家族サービスでした。
コアラの抱っこやイルカショー、水上スキーショーは定番ですが、意外な発見がアイスクリーム。
何だと思うでしょうが、やたらおいしい。
思わず、1日で5個も食べてしまいました。
こんなに食べたのは、子供以来です(笑)。
日本のはもう食べれませんな。
また、女性にはショッピングは欠かせません。
Pacific fairというハワイのアラモアナの数倍の規模のショッピングセンターがあり、何でもそろいます。
見ているだけでも楽しいというので一緒に行くと、おしゃれなインテリア雑貨・服・靴などが日本の半額くらい!
おしゃれなロウソク立てが1,500円とか、大きな観葉植物が5千円とか、大きなポスターに額を付けても8,000円とか。
比較的大きな家具が特に安く、半額以下という感じです。
センス良いものが半額であるのだから、ハワイのアウトレットなんて目じゃありません。
ここでは、夫婦では見たいものが異なるため、別々に行動し、後で落ち合うというのが賢いやり方ですね。
Window shoppingしていて『あれ、どこかで見たな』と思うと、社長の家にあったりして、インテリアを楽しんでいるのが、羨ましかった。
後で聞くと、window shoppingにみんな(特に女性は)ハマルそうです。
正確に言うと、windowではありませんね、実際に買ってしまうのだから(笑)。
あまりにも購入意欲をそそられるので、値段を倍して購入を検討するようにしようかと妻に言ったら、隣で聞いていた社長夫婦に、「『会計士』を忘れなさい」と怒られてしまいました(爆)。
また、スーパーマーケットへ行っても、果物が山盛りされているのですが、kg単位で値段表示されているのが妙に嬉しい(どうもオンスは慣れないんだよな)。
昨年、社長夫妻は4年中古のボートを800万円で購入しました。
ボートと言っても全長11歩ですから、日本人の感覚からすると、小型クルーザーです。
それが庭の桟橋に横付けされているんですからね。
リビングから庭を見て、プールの向こうにクルーザーが係留されている風景を想像してみて下さい。
朝焼けにシルエット浮かぶクルーザー、なんてね。
4年中古でもオーバーホールして真っ白に塗り替えて、子供の名前をクルーザー名にしているんですよ。
羨ましい限りです。
そのボートでfishingへGO。
ボートも運転させてもらいました。
居住区ではスピードは出せませんが、居住区の外に出ると、思いっきり飛ばすことが出来ます(と言っても内海ですが)。
他の船も通行しているので、標識のブイに沿って運転しなければなりません。
ブイは1kmごとにあるのですが、飛ばすとブイを探すのが大変です。
ブイの外側は浅瀬になっており、座礁の危険があるからです(社長は何度も座礁した経験があると笑っておりました)。
いやあ、緊張しました。
でも、自らボートを操って、大物をFishingする。
面白いです。
因みに、免許は、社長夫妻とも現地で取ったそうです。
奥さんはペラペラですが、社長はbody languageが99%のため、英語はどうしたのか聞いたら、試験官が間違えを直してくれたそうです(!)。
他の日本人は手のひらに書いて(いわゆるカンニング)パスしたと言っていたし。
いい国だ(笑)。
帰ったときに船を桟橋に横付けするのですが、またこれが難しい。
エンジンを切った後の惰性のスピードと舵の切り方だけで横付けすることになるからです。
社長の家のあるリゾートの隣には別のリゾートがあるのですが、そのリゾートのレストランにボートで行くことも出来ます。
今回は社長はトライしませんでしたが、レストランの桟橋に1回でうまく横付けできると、レストランの客から拍手喝采だそうです。
今日はここまで。
成功を目指すことはいろいろな意味で大事ですが、成功後はどうなるか、実際に私自身が体験したある例を見てみましょう。
下記の文章は、体験後の2年前にあるネット掲示板上に掲載したものです。直後ということもあり、少々ハシャいでいる部分もありますが、ご容赦願います。
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ある中小企業オーナーが、オーストラリアのゴールドコーストに別荘を建てたというので、昨年の7月に遊びに行きました。
従業員も8人ほど泊りに行ったそうで、別荘よりも寮を想像していました。上場企業の複利厚生施設のイメージでしたね。
ブリスベン空港から車で40分走り、リゾートのゲートをリモコンで開けて入っていくと、地中海風のこぎれいな建物が、かなりの間隔をおいて立ち並んでいました。
社長の家の前に車をつけ、家に入ると、そこは吹き抜けになっており、昔のハリウッド映画に出てくるような螺旋階段と豪華なシャンデリア。
1F、2Fと見て回ると、5 BedRoomとも全てインテリアを微妙に変えているにもかかわらず、全体としてまとまりがあり、センスの良さが感じられます。
マスターベッドルームには泡風呂ができる大きな浴槽があり、30畳もあろうかというリビングは3つに空間ができるように自然に分けられ、10人ぐらい入れる台所も。
庭に出ると、17mプールにジャクジー、テニスコート1面。
バーベキューを行える離れもあり、主のいないハンモックが風に揺れています。
庭の先は運河に面しており、桟橋が。。
寮なんてとんでもない。
文字どおり『豪邸』でした。
土地の広さは700坪、建坪は200坪。
土地代金と総建築費用はなんと、たったの1億円!!
興奮さめやらぬ私を、社長はゴルフに誘います。
目の前のゴルフ場がまたすばらしく、PGAツアーが開かれたくらい上級者にも難しく、かつまた、私のような初心者にも難しい。
プレーフィーはたったのA$15(メンバー)(約\1,000)。
カートフィーも同じくA$15(1台)(約\1,000)。
因みに、ゴルフ場について言えば、ゴルフのメンバーになるには入会金がたったのA$1,200(約\80,000)(!)。年会費はA$600(約\40,000)。(追加;現在は上がっています)
日本のように流通するわけではありませんが、利用価値を考えたら、べらぼうに安い。
電動Cartは1台あたりA$15(約\1,000)。
つまり、4人で回るときは1人1台ずつ借りてもいいわけです。
打ちっぱなしも、緑の網などありません。
先に池があり、打った後、ついティーを拾って歩き出したくなります(笑)。
アプローチの練習場やバンカーの練習場もあります。
特にアプローチの練習場が嬉しかったですね。日本ではまずありませんから。
バンカーも人の肩まで隠れるような本格的なやつです。
コースでプレイしているときに、1人で回っている巧い豪州人に先に行ってもらうと、「ありがとうございます」と手を振りながら日本語で(!)挨拶され、思わず「You are welcome」と英語で(!)答えてしまいました(笑)。
後で聞くと、学校で第2外国語の筆頭にあがっているくらい、日本語は身近なようです。
輸出・輸入とも、豪州にとって日本は大きな貿易相手国なようですし。
空気がカラッとしているため、汗は全く出ません。
ゴルフ後のビールのまたうまいこと、うまいこと。
余談ですが、ゴルフ場のクラブハウスのカツサンドもおいしいですよ。
昼寝は庭のハンモックで。
空気が乾燥していて初めて、ハンモックは快適なんですよね。
初めて知りました。
夕方になると、ホテルのカジノへGO。
バカラのやり方を教えてもらって、始めるとまたこれが面白い。
ブラックジャックやルーレットみたいに、ディーラーに左右されず、全て自分の読みにかかってくるので、やめられないですね。
1時間の戦績は1万円を元手に+7,000円でした。
社長は5万円を元手に+2万円ですから、さすがです。
後で聞くと、カジノへ行った5日間とも2~3万円勝って、飛行機代が浮いたそうです。
好きな人でしたら、1日中入り浸りでしょうね(笑)。
翌日は乗馬。
スタッフに手綱を引かれてただ揺られる日本とは違い、牛追いまでさせてくれます。
もちろん、走らせることも出来ますし、山も上り下りします。
正直、馬を自在に操って牛を柵に追い込んでいくのが、あんなに面白いとは思わなかった。
蟹取りもできます。
運河にはマングローブの林が生えているため、庭の桟橋から網を放り投げて1晩置くと、マッドクラブという甲羅が20cmはあるカニが取れます。
塩を1つまみ入れ、30分茹でるだけ。
うまかった!
夕焼け・朝焼けのきれいさも、東京とは段違いですね。
空気のきれいさ、湿気の少なさが影響しているのか、とにかく綺麗ですね。
星も降るような感じです。
ゴールドコーストに行く途中に、和田アキコのコンドミニアムがあるのですが、かわいそうになってしまいます
(といっても、私が別荘を持っているわけではないのですが(^^))。
「5日間(現地滞在日数)行く」と社長に伝えたときに、「それしか来れないの」と言われ、『ようやく取った休みだというのに、1ヶ月(!)も滞在している社長はいいよな、全く』と思わずぼやいたのを覚えていますが、本当にあっという間でした。
この旅行で価値観が変わってしまいました。
不動産に対する価値観、旅行に対する価値観、人生に対する価値観などいろいろな面で参考になりました。
ちょうど、海外投資やPTなどへの興味が膨らんできた頃でもあり、ダブルパンチでした。
だんだん止まらなくなってきてしまいましたので(笑)、今年の旅行や他のことはまた今度にさせて下さい。
映画『ストレイト・ストーリー』を見ました。
アルヴィン・ストレイトという1人の老人が、兄が倒れたとの電話で、兄に会いに旅に出ます。
時速8㎞のトラクターで。
米国アイオワ州からウィスコンシン州の560㎞を、野宿しながら6週間もかけて。
2本の杖が無いと歩けず、眼が悪いため車の運転もできないアルヴィン老人にとって、誰にも頼らず、自分でできる方法は、家にあるトラクターでの移動しか無かったのでしょう。
車ならたった1日の距離をあえて自分のやり方にこだわるのは、彼自身の人生でどうしてもやり遂げなければいけないことだと、思っていたからに違いありません。
子供の頃のように、一緒に星を見たい。ちょっとした諍い(いさかい)で、10年以上仲違いしていた兄とこのまま死に別れしたくない。
人々の嘲笑と家族の心配をものともせずに、その最後の夢を実現すべく、自分の名前の通り、まっすぐに向かう老人の目は、少年のように輝いています。
人は誰でもやり遂げなくてはならないものがあるが、自分はそれを持っているだろうか。
そして、それを自分の力でやり遂げる意志を持てるだろうか。
思わず、そう自問せざるを得ません。
旅の途中で丘にさしかかった時、トラクターが故障して立ち往生したアルヴィンは、「兄のところまで車で送ろう」と声を掛けられます。
「気持ちは本当に嬉しいよ。だが自分でやり遂げたいんだ」
「いいかい、アルヴィン。この先は、まだ丘が続くんだよ。また故障したらどうする?」
「だが、どうしても自分だけの力でやりたいんだ。ぜひ最後までやり遂げてみたい。志を貫きたいんだよ」
そしてアルヴィンはまた走り始める―――――。
自分の可能性を賭けてやること。
それは、自分が生きた証しそのものです。
見事に自力でやり遂げて兄とまた星を見ることができたのは、アルヴィンにとって、さぞかし満足だったのに違いありません。
この話が実話であるだけに、深く胸をうちます。
兄の家に無事たどりつき、兄との再会を果たすアルヴィン。
「あれで来たのか?」
「ああ」
トラクターを見つめる兄の目に涙が・・・。
体が不自由な兄にとって、やはり体が不自由な弟がやり遂げたことに、感動がひとしおだったのでしょう。
年を取れば、何もかもが減っていきます。
死までの時間・体力の衰え・巡ってくるチャンスの数・・・。
全てが減っていく中で、本当にやりたいことを、1つか2つに絞らなくてはなりません。若い頃のように、脇道にそれたり、道草をしている暇はありません。
「年をとるほど、失うものも大きいんだ」
アルヴィン老人の言葉です。
選択することは誰にでもできます。
本当に重要なのは、できるかぎり他人に頼らず、自分で出来る方法で、自分が選択したことを、最後までやり遂げることでしょう。
自分が決断したことにエネルギーを注ぎ、それ以外のことにエネルギーを浪費しない。
何かを選ぶということは、他の何かを捨てることです。
時間は有限です。
限られた時間の中で何をするかという姿勢こそが、重要なのです。
50~70才代の人には、人間的にすごく立派な人もいれば、全くそうでない人もいる。
生まれたときには同じだったはずなのに、どうしてだろう?
その以前からの疑問に対する1つの解答が、そこにはありました。